愛は真心、恋は……

最近、思うところあって、またハロプロの歌を聴いています。


なんていうか、恋の気分みたいなものを思い出したくて。


太シスの『ENDLESS LOVE』とか、ミニモニの『CRAZY ABOUT YOU』とか、ベリっこの『ジリリキテル』とか、あややの『ハピネス』とか、やっぱいいわー。


ココナッツ娘。の『情熱行き 未来船』もいいわー。選曲、渋いでしょ?w


つんく兄さんは、あんたオカマか!?と言いたくなるほど女心に通じています。


しかも少女の清廉な心とかじゃないのね。オカマな女心なのね。
なんといいましょうか、軽く濁ってて無駄が多いw


でもさ、オカマっていうのはつまり女の本質なのよ。


きれいぶってる一般女子の中にだって絶対にある、どうにも酸味があって香ばしく、手に負えないほど不可解で、ときにゆかいな女心。


それをあぶり出し、露悪的な芸の域にまで高めているのが、まさにオカマのオネエ芸なわけで。(私は大好きよ。つか、雪ぐま自体、女装オネエ疑惑がすごいw^皿^)


そんなオカマ心満載で書かれた少女アイドル達の歌詞には、ちっとも小奇麗にではなく恋の愚かしさ、嫉妬、わがまま、そして焦燥感や嫉妬の有様が、ほろりと泣ける可笑しさで、なんの恥ずかしげもなく描かれております。


「つくーしてるのって燃えるの〜♪」とか、たとえ思いついたって書けないわよ普通w


(*コ▽パ)<このフレーズ、ピンとくるわー…。



ああ、前置きが長くなっちゃった(いつものこと)。


さて、アラフォーにしてまだまだそんな乙女の恋にピンときているコパちゃんが、先日、こんなことを言っていました。


「恋という字は、心が下にある。
 愛という字は、真ん中に心がある。
 だから、愛は真心、恋は下心なんだって」


なるほどー。愛は真心、恋は下心ね。
なんか納得できますね。


コパちゃんはこれから愛を学びたいとのことですが、私はというと、もうすっかり学んでいます。


私はいまの恋人から、愛という気持ちを学びました。


それは確かに、「心が真ん中にあがってくる」という感覚かもしれない。
おつきあいを始めた頃にはひどく揺れやすかった心が、いつしかあまり揺れなくなって、最近にいたっては不思議に強い確信や、悟りめいた感覚さえ生まれてきている。


たとえあなたがなにをしようが、私の気持ちは変わらない。
あなたが幸せなら私は満足というような強い……、まあ、愛よね。


そして彼女(面倒なので説明しませんが、私の恋人は女性です)も、私にたいしてそういう「愛」を感じていることがわかる。


こんな感覚は、もちろん初めてのことです。
ほら、くまちゃん恋多き女だから!ww^皿^


ですから、心が下にある「恋」の状態もそれなりに知っています。
恋のうちは、心はぐらぐら揺れる。
マグマのように欲望が吹き出し、ぐらぐら揺れまくるのです。


単純な性欲なら誰でもいいぶん分散するのかもしれませんが、女子の場合わりと、「あの人が欲しい!」「あの人じゃなきゃイヤ!」という一見純粋な、しかし実にとんでもない思い込みと欲望が一直線に吹き出します。


とにかく、すべて欲しいんです。
あの人が全部欲しい、心も、体も、視線も、言葉も、時間も、人生さえも。


でも、それって身勝手な欲望。
好きな相手を利用して自分の心を満たしたい「下心」だもの。
こっち見て! かまって! どこにも行かないで! 
理由は、「だって好きだから」。


ですから、なにしろささいなことで嫉妬しますよ。
たとえば、あなたがほかの女の子をチラと見た、あなたが友達との約束を優先した、そんなことでも眠れなくなるほど悔しくて苦しくて、たちまち涙が溢れます。


で、ぎゃあぎゃあ怒ってまた泣いて、呆れられては泣き崩れ……と、恋とはまことに愚かなものです。


それじゃあ、真心の「愛」になったら嫉妬しないかというと、そういうことではないんですよ。
心が上にあがっただけで、体の中にその人を想う心があるうちは、そりゃ嫉妬はするんです。
でもその次にすぐ、「まあいいわ」と思う感じ?


たとえ自分にとってはイヤなことでも、「あなたがそうしたいならどうぞ」と思えるようになる。
寛容になるんですね。


いつでも相手の自由と幸せを尊重する。
何事もあなたが楽しければいいわ。
理由は、「愛してるから」。


そう思うと心が鎮まっていく。
体の真ん中に、すうっとおさまっていく。
どーんとしてきて揺るがない。騒がない。


どんなドラマでも、ほんとに怖い本妻は、この手の観音女です。
夫の愛人に高価なお歳暮贈るタイプねw


包みを開けると出てくるバカラのグラス。しかもペア。
「いつもうちの人を楽しませてくださってありがとう。どうぞ二人でゆっくりお酒でもお飲みになって。(でも、あなたのおうちの安いグラスで飲ませたりなさらないでね)」という恐怖のメッセージです。


マッハ5秒でそれに気づいて、キーッ!とグラスを叩き割る愛人の女(黒いシュミーズを着て真っ赤な口紅を塗っている)。
キャー、オカマが萌える愛の劇場だわ〜www(うっとり)。


ま、つーわけで、私みたいな心が真ん中に上がっちゃった観音女を敵に回すと怖いわよ?(誰に言ってんだw)


もちろん、すべては程度問題で、その愛の深さに甘えるばかりで思いやりややさしさを忘れるようなお相手では、愛の泉も枯れ果てるでしょう(そんなバカは愛する価値がないからです。親子のような無償の愛とはまた違うから)。


しかし、かように「愛」とはたくましく、肝の据わった代物なのです。
恋に傷つき、転んだり泣いたり血が出た傷口をふさいだりしながらやっと学んで手に入れる、一段も二段も上のステージ。


だけど、身勝手な欲望に支配された「恋」ゆえの熱さ。
焦燥感、涙、震えるような喜び、つかまえたはずなのにまた逃げ出してしまうような幸福の瞬間。麻薬のような官能、甘い囁き。朝も昼も夜もその人を考える、ああもうなにも手につかない……なんていうのは、まさに「恋」ならではの醍醐味でございます。


恋しか知らないまっ盛りにいるときは、ああもうつらい、苦しい、好きすぎてバ〜カみたい♪ってことばっかりなんだけどね。


思い返してみれば眩しいですよ、あの時代の愚かしさも。(遠い目)


どんなに好きでももう、あんなふうにならないもんねぇ。ああまでならないというか。
嫉妬してギャー!と騒ぐってことがないし、多少怒ったり、もし涙が出たりとかしても、むこうがげんなりするほど責め立てたり、追いかけ回したり、手を出したり、物を投げたりはしない。(DV疑惑www まあ、それなりに大暴れしたのよ昔は…)


愛を知ればできないものです、もうそんな馬鹿な真似は。
第一、危険を察知したら勝手にブレーキがかかる。
身勝手感知センサーがついた安全装置ですね。
たとえいまの恋人と別れたとしても(死んでもイヤだが)、もう溺れるほどの恋なんて二度とできないと思う。


恋を重ねて覚えていくのは、愛へと向かう知性と抑制。寛容。
私のことよりあなたが大切。
そこに迷いがないのが真心の愛です。


それは驚くほどやさしい気持ち。
いつも心があたたかくて幸せです。
やっとまともに物事が考えられるようになった。


でも、それを踏まえたうえで、こう考える時もあるの。
「まー、でも、それじゃあドラマチックな“お話”にはならないのよねぇ」。


やっぱオカマのドラァグショーのように、さんざん泣きわめいて「うそつき!あたしのこと好きって言ったじゃない!」「キー!もうここから飛び降りてやるッ!」ってのがないとエキサイティングではないのよねw


(+^▽^)<なによ!携帯切ってよ!ギュッとして!抱きしめてよー!


とかさwww
もうアホかっていう、あの血沸き肉踊る感じ。


だから、もし今、恋に苦しんでる人がいたら、どんなことであれ楽しんだほうがいいわよ。


いま、全身全霊で愚かなら、それは人生でそう何度もない熱いドラマの中にいるということなのだから。


そしていつか懐かしく思い返しますよ。
愛という境地を知った時に、「あの頃はほんと馬鹿だったなあ。でもあんなに誰かに夢中には、もうなれないな」ってね^^


「恋に夢中」っていう言い回しはあっても、「愛に夢中」とは言わないもの。
夢の中のように混沌として、まわりが見えなくなるほど囚われるのは、恋だからなのです。


ですから、その混沌とした時を、わけのわからない自分を楽しんで。


え、苦しいばっかで、とても楽しんだりなんてできないって?
そんなに激しい恋をしていてうらやましいわw^皿^