感動という媚薬

今日は、某業界で営業の神様といわれるトップセールスマンにお会いする機会があって、どちらかといえば朴訥な印象の方だったので驚いたのですが、


彼が、「雨の日こそ営業に行く」とおっしゃって、はー、さすがだなと思いました。


つまり彼は、感動が人の心を動かすことをよく知っているのです。


誰も外回りなんかしたくない雨の日、どことなく寂しい気分になる雨の日、いまいち購入を決めかねている客の元に出向き、傘をさしてすこし肩なんて濡らしながら、朴訥な笑顔でにこにことやって来られたら、「あらあら、ご苦労さま……。まあどうぞ中に入って」となることを、そして「そうねぇ、こんな日にわざわざ来てくれたんだから……」となることを、よーくわかっているのです。


ビジネスではよく、「クレームには即対応。真夜中でも菓子折持って客の家まで行け!」といった熱い対処策が語られたりしますが、それもここまでやるのかという感動が心を溶かすという作用を活かしたものでしょう(もちろんマナー上、当然という話でもありますが)。


「雨なのに」「真夜中なのに」「無理を言ったのに」「忙しいのに」、こうした悪条件だから起こる感動というのがあって、


仕事ができる人や、さほどルックスがいいわけでもないのに恋人が途切れない人というのは、こういうちいさな感動を積み重ねることに長けているような気がします。


計算というよりもたぶん、悪条件でもなんとかしようとする誠意があって、人の心の機微を読むのがうまいのね。


さてしかし、たいして心の機微なんて読めない鈍感な人でも、ひとたび恋に落ちると、その人が好きという想いから天然自然に悪条件をものともしないパッションが現われたりなんかして、それがドラマティックな恋の感動となって人の心を虜にすることがあります。


たとえば、口下手な吉澤さんが、ささいな誤解から石川さんを怒らせてしまったとき。


「バカ! よっちゃんなんか大っキライ!」と深夜の電話を叩き斬った石川さんに、吉澤さんは舌打ちして、でもすぐさま家を飛び出してタクシーをつかまえます。もう真夜中で、ざあざあ降りの雨にもかかわらず。


頭にきた石川さんは憂さ晴らしに近所の柴ちゃんを叩き起こしてカラオケに行っていましたが(柴ちゃん気の毒w)、帰ってきたらマンションの前でよっちゃんが待っていた! 


ふてくされて、うつむいて待っていたよっちゃんが顔を上げる。濡れた前髪から雨のしずくがぽとりと落ちて、子犬のような瞳が石川さんを見て……。


わー、なんてロマンチック! 
こんなシチュエーションで許さない女がいましょうか。


「バカ!なにやってんのよもう!」と言いながら石川さんは吉澤さんを部屋にあげて大きなタオルでせっせと髪を拭き、そして当然のようにその後、吉澤さんは風邪をひいてぶっ倒れますが、「もー、ほんとバカなんだから」と言いながら石川さんは、私この人が好き、すごく好き、と心震わせて、せっせと看病するのです。


逆のパターンもありましょうねぇ。


芝居の稽古に入って、忙しくてデートもできない石川さん。かっこつけの吉澤さんはなにも言わないけれど、ほんとは寂しい。真面目な石川さんは舞台のための体調管理優先で、泊まりにも来てくれない。わかるけど、ちょっとくらいあたしのための時間はねーのかよ、なんて吉澤さんは不満を感じている。


そんなとき東京マラソンに出ることになった吉澤さん。石川さんは「それは絶対、観に行きたい」なんて言ってるけれど、まあムリだろな、言ってるだけだろって吉澤さんは期待しないでいた。


でも石川さんはマジで観に行きたかった。マジの石川さんはマラソンのコースとだいたいの通過時間を調べて、稽古の休憩時間にタクシーに飛び乗った。


そして沿道でよっちゃんを待ち構え、向こうからよっちゃんが見えるやいなや『よっすぃ〜LOVE』と書かれたセンスの悪い旗を振って、満面の笑顔で「よっすぃ〜!がんばって〜!」と大はしゃぎして、人目も構わずぴょんぴょん飛び跳ねた。


わー、なんてかわいいの!
これにキュンとこない人がいましょうか。


「うわ、オメーなにやってんだよキショッ!」と言いながらも吉澤さんは、これまでの寂しさや不満なんて吹っ飛んで、思わず涙が出そうになるのです。


よっちゃんが通過すると石川さんは待たせていたタクシーに飛び乗って稽古場に戻る。マネージャーさんには怒られちゃったけど、石川さんはちょっとでも観られてよかったって無邪気にウキウキしてるし、吉澤さんは本当に嬉しくて、あたしやっぱ石川が好きだ!すっごく好きだ!なんて心の中でリフレインしながら白いゴールを目指している。


いいですねぇ〜。ベッタベタですね〜。
あ、フィクションですからね、全部。


いしよし話なのは私の趣味ですけれど、恋愛ではこういう逆境をバネにしたちいさな感動が、計算とかではなく、強い恋心によって天然自然に起こるところが素敵なのです。


他人同士だからすれ違うこともあるけれど、こんなふうに逆境をバネにした感動が媚薬のように心を溶かし、またいしよし……じゃなかった、ふたりは恋に落ちていく。


なんてね。
え、そんなの萌え小説の中だけ?


いえいえ、そんなことはありません。
それはとても簡単に精製できる媚薬です。


だけど正直いって、才能の有無は大きいと思う。
あるいはやさしさ、誠意、情熱、思いやりとか、そういう言葉に入れ替えてもいい。


それからすこしだけ愚かになる才能。


呆れて「ばっかじゃないの?」と言われるのではなく、さっきのいしよし話みたいにね、「もう、ほんとに馬鹿なんだから…」なんて切なく呟かせてしまうような、相手を想うゆえに無茶を顧みないという愚かしさ。


やめろと言われても駆け出していくような情熱。


そこにこそ感動が潜んでいて、心を甘く溶かしていくのでしょう。